ヘッダイメージ
東北地方 北海道
関東地方
中部地方
近畿地方 青森
中国・四国地方 秋田 岩手
九州・沖縄地方 山形 宮城
石川 富山 新潟 福島
長崎 佐賀 福岡 山口 島根 鳥取 兵庫 京都 滋賀 福井 長野 群馬 栃木 茨城
熊本 大分 広島 岡山 大阪 奈良 岐阜 山梨 埼玉 千葉
鹿児島 宮崎 和歌山 三重 愛知 静岡 神奈川 東京
愛媛 香川
沖縄 高知 徳島
※ メニュー先より、全国の高校・公立高校・私立高校の入試偏差値ランキング一覧が確認できます(全国区の難関校が上位に表示されます)。また、地図上のリンク先で都道府県ごとの高校、色分けされた左上のリンク先で地方限定による高校の偏差値ランキングを表示させる事ができます(地元の進学校や受験する高校の偏差値等が分かります)。

成東(理数)


偏差値61( 4つ星評価 )
5教科合計概算(250点満点)166.25点
※平均125点 標準偏差15として計算
偏差値順位全国 685位/7793校( 学科単位 )
関東地方 210位/1968校( 学科単位 )
千葉県 32位/301校( 学科単位 )
公立/私立公立
男女共学
※記載の値はサイト独自に算出したデータであり、
ひとつの目安として参考程度にとどめてください。

【千葉県立成東高等学校】
概要 1899年(明治32年)に1府県1校以上の中学校設置が義務づけられ、佐倉中学・千葉中学に続き、木更津中学・大多喜中学・佐原中学とともに千葉県で3番目旧上総国では初めての県立中学として設置された千葉県立成東中学校を前身とし、九十九里平野を見下ろす小高い丘の上に位置する学校である。普通科のほかに理数科が各学年1クラス設置されている。普通科は3年次から文系・理系に分かれ、2年次から普通科には希望者による特別進学クラスが1クラス設置されている。生徒は主に東金市、山武市、八街市、山武郡から通学している。成東駅からは少し遠いため、ほとんどの生徒が電車と自転車、バスを併用して通学している。硬式野球部はプロ野球選手を輩出したことがあり、1989年(平成元年)の夏の甲子園に初出場し、智弁和歌山を破った。他にもソフトテニス部、ホッケー部も全国大会の出場経験がある。2期制。なお、2000年に100周年を迎え、新体育館屋根には「成東高」とデザインされた。
交通 ・ JR総武本線成東駅より徒歩25分
沿革 1898年、千葉県当局は既存の千葉中学校(現・千葉県立千葉高等学校)に加え、佐倉藩の藩校以来の歴史を持つ佐倉中学校(現・千葉県立佐倉高等学校)の県立移管、佐原・銚子・木更津・大多喜・北条への中学校設置案を通常県議会に提出した。当初の千葉県の原案では、成東への設置は含まれておらず、「学校と学校との距離はおおむね、十里内外」となっており、佐倉中学校の県立移管が既定路線となっている中では成東への中学校設置は困難と見られていた。 しかし、成東が誘致活動していた、第二師範学校の設置案が立ち消えとなっており 、師範学校の代わりとして、当面の間、佐倉中学校の分校という形ででも中学校を誘致すべきという声があがるようになっていた。成東町は中学校設置を町だけの運動とはせず、郡全体の運動とするべく、山武郡に支援を要請したが、これには大きな問題が存在していた。山武郡内の地域対立である。山武郡は1897年、山辺郡と武射郡の統合によって設置された郡であるが、旧山辺郡の中心だった東金と旧武射郡の中心だった成東が郡役所の誘致をめぐって激しく対立し、その他の要因も加わって統合後にいたっても対立が尾を引いていた。 旧山辺郡からの議員が多数を占めていた山武郡議会は成東の動きに影響される形で、東金への郡立中学校設置を建議していた。 郡内融和のため、中学校設置そのものを棚上げにすべきなどとする意見も出る中、1898年12月5日、千葉県知事は施政方針演説の中で成東への中学校設置に初めて言及、12月14日に佐倉・佐原・銚子・木更津・大多喜の5校と共に予算案が可決された。1年間の準備期間を経た、1900年2月2日に千葉県佐倉中学校成東分校設置が公示。4月1日に成東高等小学校(現・山武市立成東小学校)が仮校舎としていた元倡寺で初の入学試験が行われ、117名が受験し84名が合格したが、この時点ではまだ校舎がなく、法宣寺を仮校舎として借り受ける事になった。4月8日に入学式が行われ、翌日から授業が開始され、6月14日には現校地に校舎が完成して移転している。1901年4月13日には佐倉中学校の分校から千葉県成東中学校の名で独立校となり、独立直後の5月17日に千葉県立成東中学校に改称された。1902年1月19日には校地の東南端に6部屋、定員34名の寄宿舎が完成、東京高等師範学校教授南摩綱紀によって「善養寮」と名付けられ、南摩によって揮毫された扁額が飾られた。この当時、学校と県道を直接つなぐ道路はなく、生徒は曲がりくねった小道をたどって登下校していたが、登下校時の混雑や雨天・霜解け時のぬかるみが大きな問題となっていた。これを解決するため学校と県道を結ぶ100間の道路建設を計画していたが、用地の買収をめぐって地主との折り合いがつかず、建設の目途がたっていなかった。1910年になって、地域有力者の仲介などもあって用地の買収が成立し、11月16日から職員・生徒を動員して建設工事がはじまり、12月24日に完成した。翌年、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が成東中学校に行啓した際、この道路を通過した事から、それ以降「行啓記念道路」と呼ばれるようになった。1914年、成東中学校において初の大規模な学校騒動が起こる。事の起こりは2学期の始業式と日本の対独宣戦詔書奉読式の後に行われた離任式で、退職する2名の教諭が退職は本意ではなく、校長に強いられたものとする挨拶をした事から、生徒の間でこれを不当とする声が広がった。9月9日に5年生が授業をボイコット、校長室を取り囲み、数度にわたって押し入ろうとし、これを阻止されると周囲のガラスを割るなどの行為におよんだ。他学年にも同調者が出たこの騒ぎを聞き警官も学校にやってきたが、校門で阻止され中に入れなかった。結局、校長が進退伺を県に提出する事を条件として生徒は解散した。1週間の臨時休校後、保護者会が開かれ、保護者代表が謝罪して一応解決したが、処分者を出さない約束だったにも関わらず、処分と受け取れる動きなどもあり、感情的なしこりが残り続けた。1915年の卒業式では10名の卒業生が参列するのみという事態になっている。その後も大正・昭和初期を通じて成東中学校では学校騒動が続いて起こる事になった。代表的なものとしては1919年、学年あたり30名の落第者を出したり、マラソン大会が多すぎるなど厳格な教育への反発がきっかけとなったもの、1922年、予餞会において下級生代表が、当時校内で横行していた5年生による鉄拳制裁を揶揄する挨拶をした事がきっかけとなったもの、1924年、運動会の審判への不満がきっかけとなったもの、1927年、盗んだ下級生の靴で学校教練に臨んだ5年生の生徒が教師に叱責された事をきっかけとするものなどがあげられる。このような状況から外部から「ストライキ学校」とも呼ばれたが、銚子中学校の廃校後、九十九里浜沿岸地域の旧制中学校は成東のみとなり、広い地域から生徒を集めた。
卒業生 ・ 高品彪:陸軍中将 / 転校
・ 麻生磯次:国文学者。旧制一高校長・学習院院長
・ 麻生平八郎:商学者。明治大学総長 
・山本力蔵:元小見川町町長/新東京国際空港公団副総裁
・ 石橋一弥:第111代文部大臣
・ 沼田武:元千葉県知事 / 千葉中へ転校
・ 志賀直温:元東金市長
・ 茂木啓三郎:元キッコーマン社長・会長、千葉県経営者協会名誉会長
・ 大木勝年:元プロ野球選手・ヤクルトアトムズ/ヤクルトスワローズ
・ 中村勝広:元プロ野球選手・阪神タイガース、元阪神タイガース、オリックス・バファローズ監督
・ 藤田康夫:元社会人野球選手、コーチ
・ 鈴木孝政:元プロ野球選手・中日ドラゴンズ、長嶋親子と対戦した唯一の投手
・ 鵜沢達雄:元プロ野球選手・大洋ホエールズ/横浜大洋ホエールズ→西武ライオンズ
・ 押尾健一:元プロ野球選手・ヤクルトスワローズ
・ 永田裕志:プロレスラー
・ 永田克彦:シドニー五輪 グレコローマンスタイル69kg級銀メダリスト、元総合格闘家
・ 藤島康介:漫画家。『逮捕しちゃうぞ』、『ああっ女神さま』など
・ 立原あゆみ:漫画家。『本気』など
・ 中村唯:女優

「千葉県立成東高等学校」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)。2020年7月9日6時(日本時間)現在での最新版を取得。


【学校掲示板】 1件目の書込みをお願いします。




楽天ウェブサービスセンター