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修猷館(普通)
偏差値 | 69( 5つ星評価 ) |
5教科合計概算(250点満点) | 196.25点 ※平均125点 標準偏差15として計算 |
偏差値順位 | 全国 64位/7791校( 学科単位 ) 九州・沖縄地方 6位/1200校( 学科単位 ) 福岡県 3位/325校( 学科単位 ) |
公立/私立 | 公立 |
男女 | 共学 |
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【福岡県立修猷館高等学校】 | |
福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目にある公立高等学校。略称は「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。1784年(天明4年)開館の福岡藩藩校・甘棠館(西学問稽古所)、同修猷館(東学問稽古所)に起源を持つ伝統校。 | |
概要 |
■ 組織 かつては定時制と通信制も存在したが、現在は全日制普通科のみ。募集定員は11クラス440名。教室設備の都合上、3年に一度は定員を10クラス400名とし、全校で32クラス計1280名の生徒が通う。 2年次から文系・理系のクラスに分かれる。「微子之命」は周の黄金時代を築いたとされる成王(在位 紀元前1042年-1021年)が殷の王族である微子啓に殷王室の後継者となることを命じた文章である。「踐脩厥猷」は「厥(そ)の猷(みち)を踐(ふ)み脩(おさ)む」と書き下し、「成湯の偉大な道を実践し修める」ということを意味する。典拠となった一篇は以下の通り。 ::書き下し文:嗚呼、乃(なんぢ)の祖成湯、克(よ)く斉聖広淵(せいせいこうえん)なり。皇天眷佑(こうてんけんゆう)し、誕(おおい)に厥の命を受く。民を撫するに寛を以てし、其の邪虐を除く。功時に加はり、徳後裔(こうえい)に垂る。爾(なんぢ) 惟(こ)れ厥の猷を踐み脩め、旧(ひさ)しく令聞あり。 ::現代語訳:ああ、汝の祖である成湯は慎み深く賢明で度量は広く物事に通じていた。そこで大いなる天はそれを助け、(成湯は)天命を受けた。民を寛大な政治によって治め、(桀の)悪虐を除いた。功業は当時を潤し、徳は後世の子孫にまで及んだ。汝はその成湯の偉大な道を実践し修めており、久しく立派な評判がある。 藩校が廃藩置県で閉鎖された後、県立中学として再興されようとした際に、文部大臣から「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧藩士はこれに猛反発し、旧福岡藩主黒田長溥が「学校経費は全て黒田家が出すから館名を残せ」と決意したことにより館名は守られた。実際に学校の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れて完全に県費負担となるのは1900年のことである、校歌を「館歌」、校旗を「館旗」。また、修猷館をもじった「Sure, you can」という言葉もよく用いられる。 ■ 徽章 六芒星の形をした徽章は「六光星(ろっこうせい)」と呼ばれている。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」をもとに制定された。なお、一部の古い旗や制帽では六芒星の各頂点の内角が60°より小さく、鋭くなっているものがある。このようなデザインは校内のデザインやステッカー、刊行物にもしばしば見られた。 また、明治27年には初めて制帽の徽章に六光星が用いられた。(制帽のデザインとしては3代目にあたる。9月17日午後1時から館庭で館旗制定式が行われ、古賀毅館長の訓話ののち館旗に対して分列式を行った。校閲は1895年(明治28年)卒業の第五高等学校教授、八波則吉に依頼され、さらに宮内省御歌所寄人、武島羽衣が再閲を行った。長い歴史の中で数々の応援歌やエールが誕生し、應援團(後述)が中心となって生徒に指導を行ったり行事で指揮を取ったりしてその伝承に努めてきた。 ・ :「彼の群小」は「やつら雑魚ども」を格調高く表現したもの。雑魚を蹴散らして深紅の優勝旗を勝ち取った、溢れんばかりの喜びを歌にしている。 ・ :この歌には、「臥薪嘗胆の時代」と呼ばれた、1895年の三国干渉から1905年の日露戦争勝利までの10年間における国民精神が反映されている。衆望を一身に担う選手たちがこの歌で次回の勝利を誓った。 ・ :「北筑」は修猷館の所在する筑前国の北部を指す。この歌が作られた時代は正確には分からないが、日露戦争後であると考えられている。 「夫れ北筑」で志気を高め、続けて「玄南の海」で選手たちを送り出し、試合後には選手たちの健闘を称えるために、勝った時は「彼の群小」で勝利を祝福し、負けた時は「輿望は重し」で次回の勝利を期した。この時から、それまで上級生が主導してきた館歌や応援歌の歌唱指導を應援團が行うようになったことや、1927年の火災で福岡中学校舎が全焼した際に全校で復興支援を行ったこともあり特別に関係が深い。 また、武士の町・福岡の代表としての修猷館高校と、対する商人の町・博多の代表としての福岡高校という良きライバル関係を互いに受け継いでいる。ラグビー部では毎年天皇誕生日に福高定期戦を行っているほか、バスケットボール部、バレーボール部、剣道部も福岡高校と、現役選手およびOBを交えた定期戦を行っている。 さらに、東京修猷会の周年行事やラグビー部・野球部などの長い伝統を持つ部の周年行事には良きライバル校として福岡高校の関係者も招待することが慣行となっている。福岡高校100周年の際には、春日公園にて記念試合を行い、両校とも雨の中全校で応援に向かった。 また、両校は福岡市にある公立高校の中でも特に入試難易度の高い高校として知られており、福岡県立筑紫丘高等学校とともに御三家と称されている。 ■百道原 1900年(明治33年)に修猷館は大名町堀端(現・福岡市中央区赤坂一丁目)から西新町へと移転した。西新移転後の修猷館の敷地は海に近く、学校から少し歩けば百道の浜に行くことができた。百道の浜は海水浴場として1965年(昭和40年)頃まで福岡市民の憩いの場となっており、修猷館の体育の授業も百道の浜で行われていたが、高度経済成長による水質汚濁により遊泳禁止となった、藩儒竹田定良、儒医亀井南冥に藩校創建を命じる。 ・ 1784年(天明4年) ・ 2月1日 - 福岡藩の藩校として甘棠館(西学問稽古所)が開館。初代総受持は亀井南冥。 ・ 2月6日 - 同じく福岡藩の藩校として修猷館(東学問稽古所)が開館。初代総受持は竹田定良。 ・ 2月23日 - 志賀島で金印が発見。福岡藩は亀井南冥・竹田定良両名に金印の考証を命じた。その後、南冥は『金印弁』、定良は『金印議』を提出。 ・1786年(天明6年)4月 - 清の進士趙佑が「脩猷館」の扁額を書く。学問所中ノ間に掲げられる。(現在は正面玄関に掲げられている。) ・ 1798年(寛政10年) ・ 1月29日 - 唐人町より発した大火により甘棠館焼失。 ・ 6月 - 甘棠館の教師を罷免。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。 ・ 6月23日 - 初代総受持竹田定良死去。 ・ 7月 - 敷地内に武術稽古所を設置。 ■ 断絶期 ・ 1871年(明治4年)10月25日 - 廃藩置県により、福岡県が成立。全ての藩校は廃止された。 ・ 1874年(明治7年) - 福岡県は藩校跡地に診療所を設置。これが九州大学の起源となる。 ・ 1879年(明治12年)1月5日 - 向陽社(後の玄洋社)により向陽義塾設立。校長は吉田鞆二郎。 ・ 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾閉塾。向陽義塾を引き継ぎ、旧福岡藩主黒田家により藤雲館設立。館長は吉田鞆二郎。 ・ 1885年(明治18年) - 侯爵黒田長溥や金子堅太郎、旧福岡藩士らの尽力により、廃止から14年ぶりに修猷館を再興することが決定。 ■ 再興 ・ 1885年(明治18年) ・ 5月30日 - 福岡県令より、福岡県立英語専修修猷館 の設置が告示される。(同日を創立記念日としている。) ・ 9月10日 - 福岡県立英語専修修猷館を開館し、開館式を行う。初代館長は隈本有尚。黒田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切を引き継ぐ。 ・ 1887年(明治20年) ・ 3月26日 - 原因不明の出火により全焼。一時的に旧警固小学校に移転。 ・ 4月 - 旧警固小学校にて授業開始。 ・ 6月 - 文部省規定による普通学科を加える。 ・ 1889年(明治22年) ・ 3月13日 - 福岡県立尋常中学修猷館と改称。 ・ 3月15日 - 隈本有尚館長、金子堅太郎、栗野慎一郎らの尽力により旧藩校跡地である大名町堀端(現・福岡市中央区赤坂一丁目)に再建・移転。 ・ 1891年(明治24年) ・ 3月24日 - 投石事件が起こる。 ・ 11月 - 尾崎臻館長、依願退職。その後7か月間、館長空席となる。 ・ 1892年(明治25年)8月 - 金子堅太郎の勧誘により、教職員と卒業生の会である「修猷館館友会」創設。同会会報が同窓会誌の起源となる。 ・ 1894年(明治27年)12月 - 六光星の徽章を制定。 ・ 1895年(明治28年) - 柔道部、剣道部、陸上部、野球部が創設。 ・ 1896年(明治29年)5月 - 西新の現校地を購入。(20,867坪、12,393円17銭8厘) ・ 1899年(明治32年)4月1日 - 中学校令改正に伴い、新年度より福岡県中学修猷館と改称。 ・ 1900年(明治33年)7月17日 - 大名町から西新町(現校地)へ移転。 ・ 1901年(明治34年)5月4日 - 福岡県立中学修猷館と改称。 ・ 1902年(明治35年)1月21日 - 西新校地内に寄宿舎西寮竣工。 ・ 1914年(大正3年)5月12日 - 職員生徒から寄贈図書を募り、264冊をもって図書館創設。 ・ 1915年(大正4年)5月30日 - 卒業生より、菁莪堂献堂。 ・ 1917年(大正6年)4月1日 - 寄宿舎の一部を仮校舎として福岡県立福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)が開校。 ・ 1923年(大正12年)3月5日 - 館歌制定 。 ・ 1925年(大正14年)4月1日 - 福岡県中学修猷館と改称。この年にラグビー部創設。 ・ 1926年(大正15年)菁莪堂建設。 ・ 1927年(昭和2年) ・ 3月 - 寄宿舎廃止。 ・ 6月22日 - 福岡中学校舎火災に伴い修猷館の一部を仮校舎として貸与。 ・ 1934年(昭和9年)9月17日 - 館旗制定式挙行。 ・ 1945年(昭和20年)6月19日 - 福岡大空襲により大きな被害を受ける。 ■ 戦後 ・ 1946年(昭和21年)11月3日 - 修猷館同窓会発足。 ・ 1947年(昭和22年) ・ 6月 - 修猷新聞創刊。 ・ 10月 - 修猷文化展開催。(第1回文化祭) ・ 1948年(昭和23年) ・ 4月1日 - 学制改革に伴い、新年度より福岡県立高等学校修猷館と改称。 ・ 4月20日 - 新年度より男女共学となり、初めての男女共同入学式を実施。 ・ 1949年(昭和24年)8月31日 - 福岡県立修猷館高等学校と改称。 ・ 1965年(昭和40年)1月30日 - 安川第五郎祝賀会挙行。五輪旗寄贈。 ・ 1970年(昭和45年)2月 - 1・2学年、第1回十里踏破遠足。 ・ 1976年(昭和51年)3月23日 - 修猷資料館落成式挙行。 ・ 1979年(昭和54年) ・ 3月 - 校舎正面の六光星落下。 ・ 6月 - 六光星修復。 ・ 1982年(昭和57年) - 修猷館200年記念事業委員会発足。 ・ 1985年(昭和60年) - 修猷館200年記念事業開始。同年3月26日、菁莪記念館竣工。 ・ 1994年(平成6年) - 高校入試に推薦制度導入。 ・ 1998年(平成10年)3月 - 新校舎建設事業開始。卒業式を待ち、まず最初に講堂が解体される。 ・ 2000年(平成12年) - 第1期工事(教室棟)完了。 ・ 2002年(平成14年) ・ 4月 - 文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール(第1期)の指定を受ける。(2006年度をもって終了。) ・ 第2期工事(管理棟)完了。校舎建て替えや福岡県立博多青松高等学校の開校により定時制課程を閉課。 ・ 2003年(平成15年) - 第3期工事(体育館)完了。 ・ 2005年(平成17年) - 第4期工事(プール棟・弓道場・艇庫)完了。 ・ 2008年(平成20年) - 第5期工事(講堂・正門)完了。これにより10年にわたる新校舎建設事業が全て完了する。 ・ 2013年(平成25年)3月18日 - 東門が福岡市登録文化財に登録される。 ・ 2019年(平成31年/令和元年) ・ 3月 - 耐震基準に適合していなかった敷地西側のレンガ塀・東側のブロック塀が取り壊され、新たに鉄筋コンクリート造の塀が完成。 ・ 4月 - 男女混合名簿を採用。菁莪記念館の大規模改修工事が完了。講堂正面の壁面に新たに六光星の徽章を設置。 ・ 9月10日 - グラウンドの全面人工芝化工事に着手。西半分を占める野球場が閉鎖。 ・ 9月30日 - レンガ造だった南門の鉄筋コンクリート造への置き換え工事が完了。 ・ 2020年(令和2年)8月 - グラウンドの全面人工芝化が完了。 ・ 2023年(令和5年)1月 - 2学年、第1回アジア研修(台湾)。 |
歴代館長 |
藩校時代は「総受持(そううけもち)」、再興後は「館長」が正しい呼称である。
■藩校時代 代 歴代総受持 号 就任年 備考 1 竹田定良 梅廬 1783年(天明3年) 福岡藩藩儒竹田家第4代当主。 2 竹田定矩 復斎 1796年(寛政8年) 福岡藩藩儒竹田家第5代当主。 3 竹田定夫 梧亭 1807年(文化4年) 福岡藩藩儒竹田家第6代当主。 4 竹田定簡 蕭韵 1840年(天保11年) 福岡藩藩儒竹田家第8代当主。 5 竹田定猗 謙窓 1867年(慶應3年) 福岡藩藩儒竹田家第9代当主。 ■再興〜現在 代 歴代館長 就任年 備考 1 隈本有尚 1885年(明治18年) 前:東京大学予備門教諭(夏目漱石、正岡子規の師)、東京大学理学部准助教授 2 尾崎臻 1889年(明治22年) 光雲神社宮司、玄洋社社員 3 黒田長成 1892年(明治25年) 黒田家第17代当主、福岡藩最後の藩主黒田長知の長男、貴族院副議長・議員、枢密顧問官、議定官、侯爵 4 隈本有尚 1894年(明治27年) 再任 後:長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校(現・ソウル高等学校)初代校長 5 小寺甲子二 1901年(明治34年) 前:札幌農学校(現・北海道大学)助教授 後:福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)校長、長野県立長野中学校(現・長野県長野高等学校)校長 6 西村謙三 1905年(明治38年) 前:福井県武生中学校(現・福井県立武生高等学校)初代校長、滋賀県立第一中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)校長 後:長崎県立長崎中学校(現・長崎県立長崎西高等学校)校長、成美高等女学校校長、佐賀徴古館初代館長 7 柴崎鉄吉 1911年(明治44年) 前:岐阜県大垣中学校(現・岐阜県立大垣北高等学校)校長、京都府師範学校校長、大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)校長 後:朝鮮総督府中学校校長 8 小松倍一 1913年(大正2年) 前:静岡県立掛川中学校(現・静岡県立掛川西高等学校)校長 後:旧制松江高等学校初代校長、第六高等学校校長、第四高等学校校長 9 白坂栄彦 1913年(大正2年) 前:私立岡山実科女学校(現・就実学園)発起人(岡山県視学官)・初代校長 後:福岡県教育会長、帝国教育会理事 10 古賀毅 1930年(昭和5年) 前:鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)校長、埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)校長 後:福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)校長 11 隈部以忠 1937年(昭和12年) 前:山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)校長 後:京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)校長、甲南中学校・高等学校校長(新制初代) 12 大内覚之助 1941年(昭和16年) 前:旧制福岡高等学校教授 後:久留米大学附設中学校・高等学校校長、熊本女子大学(現・熊本県立大学)文家政学部長・名誉教授 13 井上孝太郎 1949年(昭和24年) 後:常盤高等学校校長、純真女子高等学校(現・純真高等学校)校長、純真女子短期大学(現・純真短期大学)学長、福岡県教育委員長 14 山田茂 1958年(昭和33年) 15 重藤市之丞 1961年(昭和36年) 前:福岡県立鞍手高等学校校長 後:東海大学第五高等学校校長 16 石橋茂 1968年(昭和43年) 17 樗木昇一 1971年(昭和46年) 18 佐村和春 1975年(昭和50年) 前:福岡県立豊津高等学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)校長、福岡県立糸島高等学校校長 19 湊博文 1978年(昭和53年) 20 原岡鐵二 1982年(昭和57年) 後:福岡雙葉中学校・高等学校校長、東和大学附属東和高等学校・東和大学附属中学校校長 21 亀谷陽三 1989年(平成元年) 22 吉田秀男 1990年(平成2年) 前:福岡県立玄界高等学校校長 23 船津正明 1993年(平成5年) 修猷館高校出身館長 前:福岡県立糸島高等学校教諭 24 前川昭治 1999年(平成11年) 前:福岡県立門司高等学校(現・福岡県立門司学園中学校・高等学校)校長、福岡県立東筑高等学校校長 25 末永照元 2002年(平成14年) 26 古田智信 2004年(平成16年) 前:福岡県立東筑高等学校校長 後:久留米大学附設中学校・高等学校校長 27 中嶋利昭 2006年(平成18年) 28 亀岡靖 2010年(平成22年) 前:福岡県立城南高等学校校長 29 中嶋利昭 2011年(平成23年) 再任 後:筑紫女学園中学校・高等学校校長 30 奥山訓近 2012年(平成24年) 前:福岡県立博多青松高等学校校長、福岡県立春日高等学校校長 31 江口善雄 2015年(平成27年) 前:福岡県立春日高等学校校長 32 高島孝一 2018年(平成30年) 前:福岡県立遠賀高等学校校長、福岡県立春日高等学校校長 33 岡本圭吾 2021年(令和3年) 修猷館高校出身館長 前:福岡県立特別支援学校北九州高等学園校長 34 中神智文 2023年(令和5年) 現任 前:福岡県立朝倉高等学校教諭、福岡県立武蔵台高等学校校長 |
200年記念事業 |
修猷館200年記念事業は、1981年(昭和56年)2月の幹事会で図書館の改築・菁莪記念館の建設が了承され、具体化への一歩を踏み出した 。その後、記念事業委員会結成大会を経て、学校・同窓会・父母教師会・修猷協会が一体となって進められた。建物の工事は株式会社黒木工務店が請け負った。資料館内の防犯施設・陳列ケースなど、卒業記念品として寄贈されたものも多い。建物は壁式鉄筋コンクリート造平家建で、展示室、管理事務室、収納室からなり、延べ面積は149.5平方メートル。収納室は2階に分かれており、1階は書画、2階は書籍を保管している。その後、毎年1月8日の開講式で講堂に掲げ、釈菜の礼を行った。漱石は特に「訳解」の授業について、教師・生徒とも日本語を用いず訳読・会話・文法の授業を行っているとして高く評価した。
■モーカリ 1975年(昭和50年)頃まで続いた慣習に「モーカリ」というものがあった。これは、担当教員不在の場合、繰り上がりで当日の授業が早仕舞いするというものである。また、変更の都合がつかず自習が生じた場合に自習の後の授業を担当教員と交渉して自習にしてもらい早く放課にしてもらうことを「モーカリ交渉」と称した。もともとこの制度は、戦後食糧難の時代に弁当を持ってくることができない生徒が多かったため、授業を早めに切り上げたのが始まりである。当時の尾崎臻館長が辞任、佐藤正連隊長が更迭されるに至った。校地総面積は58,738平方メートルもの蔵書を抱える図書館は読書だけでなく自習にも供される。図書館内には修猷館に関する資料や同校出身者の伝記・著作などをまとめた「修猷館コーナー」が存在する File: Shuyukan High School gym.jpg 体育館内部 File: Shuyukan High School judo hall.jpg 柔道場 File: Shuyukan High School kendo hall.jpg 剣道場 File: Shuyukan High School Japanese archery court (2).jpg 弓道場 File: Shuyukan High School baseball ground (2).jpg 野球場 File: Shuyukan High School rugby field.jpg ラグビーコート File: Shuyukan High School athletic track.jpg 陸上走路 File: Shuyukan High School tennis court.jpg テニスコート File: Shuyukan High School clock tower (1).jpg 時計塔 File: Shuyukan High School Museum (6).jpg 資料館へと続く道 File: Black Pine in Shuyukan High School.jpg 黒松 File: Cycads at Shuyukan High School (2).jpg 南門傍のソテツ File: Cycads at Shuyukan High School.jpg ソテツのロータリー File: Art work "Michi" in Shuyukan High School.jpg 今村芳展『みち』 File: Art work "Omoi" in Shuyukan High School (2).jpg 松重明『想い』 File: Art work "RYU" in Shuyukan High School (1).jpg 小田部黃太『RYU』 File: The monument of 30th anniversary of graduation.jpg 卒業三十周年記念碑 File: The monument of Shuyukan High School’s 50th founding anniversary.jpg 創立五十周年記念碑 File: The monument of Shuyukan High School’s 200th founding anniversary.jpg 創立二百周年記念碑 File: The monument of Shuyukan High School’s 230th founding anniversary.jpg 創立二百三十周年記念碑 File: The monument of Shuyukan High School (1).jpg 定時制閉課程記念碑 File: Mr. Nagamichi Kuroda and his wife visit monument in Shuyukan High School.jpg 黒田長礼夫妻来校記念碑 |
学校生活 |
■ ルール 自主自立の精神と反骨的な校風が受け継がれていることから特に校訓・校則を定めず、生徒による大幅な自治が認められている。生徒心得という明文化されたルールはあるものの、校則とは呼ばれず、風紀検査も行われない。生徒手帳が配布されない代わりにカードサイズの生徒証明書が発行される。 校内での携帯電話の所持・使用は各自の裁量に任せるなど規則は緩やかであるが、私服登校やオートバイ通学は原則認められていない。火曜日7限に「総合的な探求の時間」、水曜日7限に「ホームルーム活動」を行う。なお、定期考査・実力考査の実施日は、SHR開始時刻を8時40分、I限開始時刻を9時とする。 ・クラス委員 - 学級の管理及び諸連絡にあたる。 ・監査委員 - 会計監査・選挙管理・規約監査にあたる。 ・保健委員 - 保健に関連した事項にあたる。 ・体育委員 - 学級内の体育に関連した事項にあたる。 ・庶務委員 - 学級内の会計に関連した事項や学級内の庶務にあたる。 ・美化委員 - 学級内の美化や校内の美化活動に関連した事項にあたる。 ・図書委員 - 図書館の運営にあたる。 ・文化祭委員 - 1・2年のみ。文化祭のクラス企画に関連した事項にあたる。 ・アルバム委員 - 3年のみ。卒業アルバムの企画・編集にあたる。 ・校誌編集委員 - 雑誌「修猷」の編集活動にあたる。 |
修猷二大行事 |
外部に広く公開される大規模な学校行事は年に2回開催される。いずれも企画立案段階から各行事における生徒運営委員会が設置され、生徒主体の運営が行われる。また、これらの行事の直前期には、授業時制が大幅に短縮されて50分授業×6限から40分授業×4限になり、午後は作業・練習の時間となる。
■ 修猷大運動会 毎年9月上旬の土曜日に開催され、例年一般公開されている。全校生徒が赤・青・黄・白の4ブロックに分かれて競い合う。各ブロックは大幹(だいかん)と呼ばれる幹部を中心に総合優勝を目指して熱戦を繰り広げる。また、運営委員会も生徒のみで構成されており、各ブロックのブロック長や大幹とともに大運動会の開催に向けて業務を行う。なお、運営委員会のカラーは緑である。 ◎競技 修猷大運動会で行われる競技には以下のようなものがある。 ・ 応援コンテスト - 通称「応コン」。各ブロック全員で行われるマスゲーム(人文字)である。応援歌に乗せ、パネルを使って様々な文字や絵を表現する。応コンが行われるブロックスタンドは修猷館にゆかりのある建設会社の協力で建てられており、背後にはバックパネルが設置される。 ・ タンブリング - 各ブロックの男子全員で行われる組体操である。各ブロックのタンブリングテーマを7段の人間ピラミッド(通称「7ピラ」)や4段の人間円塔(通称「4タワー」)などの技を組み合わせて表現する。 ・ 創作ダンス - 各ブロックの女子全員で行われる。ダンスの動きや構成は各ブロックのダンス大幹が考える。 ・ エール - 「エーラー」と呼ばれる者が太鼓の音頭に合わせて演舞を行ったり、「エールっこ」と呼ばれる者がチアダンスを披露したりする。 ・ 陸上 - α・β・γの3競技がある。α・γはそれぞれ大運動会の幕開け・締め括りに行われるリレー競技であり、βはいわゆる障害物競走である。 ・ 綱引き - 各ブロックの男女80名と綱の最後尾を担うアンカーマン1名で綱を引き合う。 ・ 騎馬戦 - 男子競技。各ブロックの計16騎の騎馬(1騎あたり5名で構成される)どうしがぶつかり合い、大将騎落馬を目指す。 ・ 棒倒し-男子競技。守備・攻撃に分かれ先に棒を倒したブロックが勝つ。 ・ 棒引き - 女子競技。12本の棒を自陣に引き合う。 ・ 大帽走 - 女子競技。10人11脚で走り、縄跳びをするリレー競技。バトンの代わりに帽子を使うことからこの名がついている。 大運動会の入場行進の際には五輪旗が掲げられる。かつては1964年東京オリンピックにおいて国立競技場に翻った実物を使用していが、現在では劣化したためレプリカを使用し、実物は額に入れられ同校の資料館に展示されている。 ■ 修猷大文化祭 毎年6月上旬頃の土曜・日曜の連日に開催されていたが、2学期制への移行に伴って平成20年度からは3月中旬ごろの土曜・日曜に移行された。また、3年生は参加しない。例年一般公開されている。 内容を大別すると、各クラスが一体となって展示や劇を行うクラス企画、文化部が部活動の内容や成果を紹介したり部活動に関連した内容の展示や劇を行ったりする文化部企画、展示・バンド・歌・ダンスなど有志が中心となって行う文化祭有志企画、の3つがある。 秀逸だったクラス企画には、館長自らが選ぶ「館長賞」や、来場者からの投票で選ばれる「六光賞」が与えられる。 平成20年度から、6月に文化部を中心とした文化祭「春のフェスト」が開催されることになったが、平成21年度から「春のフェスト」は廃止され、代わりに「文化部発表会」が開催されることとなった。 |
年間行事 |
上記の二大行事や学年行事、研修旅行を除いてほぼ全ての行事運営を執行部が担っている。年間を通しての行事スケジュールは以下の通り。
■ 4月 ・ 入学式 - 講堂で執り行われ、孔子像や館歌の紹介がなされる。 ・ 部活動オリエンテーション - 1年生の入学直後の6限・7限に実施される。2週間ほどの体験入部期間の初日となる。 ・ 応援歌指導 - 應援團員と応援歌指導員により、1年生に対して歌唱指導が行われる。 ・ 創志研修 - 1学年の行事である。以前は近郊での宿泊研修だったが、自然災害の影響で平成29年度より日帰りの自然レクリエーションや校内でのクラス討議などに変更されている。 ・ 学年遠足 - 4月末に行われる、2・3学年の遠足である。2学年は志賀島方面、3学年は能古島へ向かう。クラスや学年での団結を強める行事である。 ■ 5月 ・ 創立記念行事 - 5月30日の創立記念日に合わせて様々な文化行事が1日かけて催される。午前中は政財界の要人や科学者、文化人などを招いて講演会が行われる。午後は各方面で活躍する卒業生が出前授業をする「卒業生キャリアセミナー」が実施される。なお、創立記念日として定められている同日は1885年(明治18年)福岡県令より、福岡県立英語専修修猷館の設置が告示された日である。 ■ 6月 ・ 芸術鑑賞 - 2学年の行事である。 6月中旬に集団で地下鉄に乗り観劇に向かう。 ・ 小学生ふれあい教室 - 6月中旬、近隣の小学生と保護者を招いて学校案内を行う。 ・ 文化部発表会 - 6月下旬、13の文化部と有志団体の活動成果を発表する。 ■ 7月 ・ 海外研修 - 7月中旬の一週間で実施される。校内から選抜された派遣団が米国西海岸・東海岸の諸都市を隔年で訪問する。同窓会組織からの手厚い補助が不可欠の行事である。また、2022年度の1月には台湾を訪れるアジア研修も実施された。 ・ クラスマッチ - いわゆる球技大会である。夏休み直前に2日間行われる。大運動会に向けてクラスの団結を高めるという側面をもち、各競技部門とクラス総合のそれぞれで成績が発表される。 ■ 8月 ・ 東京研修 - 夏季休業中の8月上旬に実施される。東京近辺への進学を考える2年生が参加する。大学や企業などを訪問する。 ■ 9月 ・ 大運動会 - 前述。 ・ 東北研修 - 9月末から10月初旬の秋季休業中に実施される。2011年度の修学旅行で最初に東北地方を訪れたことから、2018年度まで7年間続いた。東北の復興に鑑みてここで停止となる。 ■ 10月 ・ 修猷フェスト - 10月下旬から11月上旬頃に開催される。中学生に向けた学校説明会であり、部活動の紹介や体験授業などを行う。土曜の午後に開催され、午前は卒業生による出前授業が行われる。 ・ 研修旅行 - 10月末から11月初旬にかけて実施される、修学旅行である。学年全体で国内の同じ地方を訪れるが、その中でいくつかのコースに別れて研修を行う。 ・ 文化講演会 - 各界で活躍する人物を講師として迎え、講演会が実施される。 ■ 11月 ・ 菁莪祭 - 校内での図書館祭で、11月中旬の読書週間に行われる。教員による講演会などもある。生徒図書委員会発案により、1990年度より実施開始。 ■ 12月 ・ 十里踏破遠足 - かつては十里行軍とも呼ばれた。糸島半島十里(約40km)を歩きぬく行事(強歩大会)である。毎年2月上旬ごろに開催されていたが、2008年度から12月中旬に引き上げられた。3学年が参加しない行事の一つである。 ・ 課題研究発表会 - 課題研究の成果を発表し合う行事である。課題研究は、生徒自ら研究したいことについての講座を開き、それぞれの講座で1・2学年の混合グループを作り、夏季休業前から研究・発表準備が行われる。 ■ 1月 ・ 予餞会 - 毎年1月31日に開催される。下級生と上級生が対面形式で学校生活や生徒個人の理想、信念を語り合う場となっている。 ■ 3月 ・ 大文化祭 - 前述。 ・ 卒業式 - 講堂で執り行われる。学業・運動・文化・生徒会活動の各部門において、特に優れた業績を残した生徒に対して、「修猷館賞」・「功労賞」などの賞が与えられる。 |
生徒会・部活動 |
部活動への加入率が高く、兼部をする生徒も多い。全校生徒からなる生徒会が大幅な自治と学校運営を任されており、どの団体も行事や大会に向けて日頃から盛んに活動している。
■ 生徒会 生徒会選挙で選出されるのは下記の三役員のみで、業務のほとんどは執行部が行う。 ・生徒会総務 - 前期・後期各1名。生徒会の代表者であり、名目上は執行部の長。 ・生徒会議長 - 前期・後期各1名。議長団を統括し生徒総会や談話会を主催する。 ・監査委員長 - 前期・後期各1名。各クラスの監査委員を集め生徒会三役選挙を行う。 ■ 事業部 生徒の学校生活や広報に関わる部で、学校運営の一端を担う。 ・ 執行部 - 校内雑務・行事運営を担う。選挙ではなく届け出による入部。 ・ 議長団 - 生徒会の議事録などを作成。 ・ 應援團 - 学校行事や部活の試合などで活動。 ・ 新聞部 - 年に5回「修猷新聞Neo」を発行。「修猷新聞Neo」はフルカラーの雑誌型新聞で、不定期に「EXTRA」も発行している。第46回全国高等学校総合文化祭出場。第26回全国高校新聞年間紙面審査優良賞受賞。 ■ 運動部 スポーツ推薦による入学もあり、ラグビー部や陸上部をはじめ多くの運動部がインターハイ出場を目指して盛んに活動している |
「福岡県立修猷館高等学校」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)。2024年10月4日18時(日本時間)現在での最新版を取得。